『 れる水面みなも 』
追憶の苑-キスを落とす25箇所より
01:頭の頂点にそっとより

 月の姿が見えぬ夜。跡部は一人最上階にある温水プールに浮かびながらぼんやりと夜空を眺めていた。
 冬独特の澄んだ空気のお陰だろうか、いつになく瞬いている星の数が多い気がして跡部はふと表情を和らげた。
 こんな瞬間だからなのか――空を見上げるだけで恋人のことを思い出すのは。

 成人を迎えたのにも関わらず樺地の目に写る世界はどこまでも美しく、同時に純粋さを見失うこと無く成長し続けている。
 さらに伸びた身長、がっしりとした屈強な体。そして同年代の男共よりも落ち着いた雰囲気に洗練された動き。
 とくに太く大きな手が創りだす細やかで繊細なスイーツは世の女性達の心をがっちりと掴んで離さない。

 ――店がオープンして半年ちょっと。

 樺地の意向もあってお店は郊外にひっそりと佇む。
 周りを木々に囲まれ、どこかイギリスの森の中を思い出させるその場は一目見て樺地が気に入った場所だった。
 どうやら森の中の隠れ家的な店をコンセプトとして考えていたらしい。
 出資した跡部もその場を見て懐かしさを感じた。幼い頃二人で駆け回った森に雰囲気が似ていたからだ。
 もっともソレもあったからこそその場に店を構えることを決めたらしい。

 まだまだ起動に乗り始めたところとはいえ、樺地自らが手がけるスイーツだ。まずいはずがない。
 なにより宣伝せずとも、一度樺地が作るスイーツを味わってしまえば誰も彼もが虜になるのは目に見えていた。
 一つ一つ丁寧に作られるスイーツたちはきらきらと輝きを放ち、ショーケースの中に所狭しと並べられても瞬く間に売り切れてしまう。

「ま、樺地が作ってんだ。当然の結果だがな……」

 今日、仕事の都合で久しぶりに樺地の店に寄ったことを跡部は後悔していた。
 今まで見向きもしなかったメス猫共がやっと樺地の良さに気づき、色めき立ち始めていたのだ。
 さらに樺地を射止めようと躍起になっているのが跡部には許しがく、憤りさえ感じていた。。

 ――アレは俺様のだ! 近寄るんじゃねぇ!

 そう何度叫んでしまいたかったか跡部には分からなかった。
 ちりりと燻っていた胸の痛みは凍てつき、氷柱となって跡部の心に深く突き刺さった。
 大人になってしまった現実が否応なく跡部の感情を律し、支配する。
 無理やり気持ちを抑えこむことでやっとその場を後にすることが出来た。

 仕事を終え、感情を抑える必要がなくなった跡部の行動は早かった。
 二人で住んでるマンションの管理人に電話し、最上階にある温水プールを貸切にさせたのだ。
 それも全ての電気を消すように指示して。もっとも危険だから、と水中の明かりだけは淡く灯されたままになっていたが。

 跡部は感じてた苛立ちを発散すべくひたすら泳ぎ続けた。
 ただ無心に。そして泳いだ後の爽快感と浮遊感の心地良さを求めながら――。

 ひと通り泳ぎ着かれた跡部は体から力をぬき、たゆたう。
 同時に ゆらゆらと大きな天井の窓に揺らめく水面が見え、その先にある瞬く星々を見据えた。
 辺りは静寂に支配され、微かな明かりがあるとはいえ、見える景色はどこか夜の海を彷彿させ、跡部に錯覚を思わせる。

「……船から落ちた王子かよ」

 深く、長く跡部は呼吸を繰り返しそのまま水中に潜る。脳裏に浮かんだどす黒い感情を消し去るために勢い良く。
 そしてこのまま嫌な気持ちが全て水の中に溶けてしまえばいい――と願いながら。
 けれどソレは叶うはずもなく、跡部はゆっくりと水中で目を閉じた。
 暗い海に身を投げた悲しい物語を思い浮かべながら、ただ一人を想って……。

 静寂が打ち破られたのは突然だった――。
 派手な水音と共に跡部の体が一気に持ち上げられたのは。

 驚愕したままの表情で見下ろせば、スーツ姿の樺地が跡部を逃がすまいとしっかり抱きしめていた。
 どうやら溺れていると勘違いしての行為だったらしい。
 樺地は樺地で己の間違いに気が付いたらしく咄嗟に跡部の胸に顔を埋めた。
 だが跡部にはしっかりと見えていた。樺地の顔が赤く、同時に目尻が恥ずかしそうに下がっていたのを。

 跡部はくすくすと笑いながら居たたまれなくなっている樺地のつむじに口付けを贈った。
 言葉にせずとも愛おしくてたまらないという気持ちが伝わるようにそっと優しく。

 幾度と無く頭へ口付けていれば観念したらしい樺地がおずおずと顔を上げた。
 すぐさま跡部は逃がしてやるもんか、と樺地の顔を己の手で動かぬように固定し捉える。
 些細な変化すら見逃さぬように。同時に滅多に見下ろすことの出来ない角度から見る樺地を堪能するために。
 そして相変わらず小さくて黒目がちな瞳と視線が絡みあった瞬間、跡部の思考ははじけ飛んだ。

 ――あぁ、そうだ。コレは俺様のもんだ。

 過去に裏付けされた確信と、同時に今まで燻っていた苛立ちや痛みが一気に跡部の体から消え去った。
 いや、ただ樺地を求めて止まない心だけが他の全てを排除しただけろう。
 それほどまでに激しい思いを胸に、跡部は躊躇することなく樺地の唇を貪ることで示した。

 ――触れるだけじゃ物足りない。もっとお前を寄越せ、と。

 樺地はすぐに跡部の意を汲み、行動に移す。
 揺れる水面に跡部を落とさぬようしっかりと抱きしめたままより深く、より長く――ただ求めるままに。


*** Fin ***