甘い、甘い匂い―――
あの人から薫る匂いのように―――
過ぎ去ったあの暑い夏。
すでに引退した元レギュラーメンバーは飽きることなくテニス部へほぼ毎日顔を出している。
元々氷帝はエスカレーター式の学校だから外部を受ける人意外はとくに受験勉強をする必要がないのだ。
一部の先輩はそうじゃないらしいと聞かされたが。
テニスをしたくてなのか、暇をもてあましてなのかは。
どちらも当たってる気はするのだか…それは言わぬが花というものだろう。
なによりも後輩達の面倒を見てくれるのはありがたい。
けれど心は悲しいと思ってしまう。
もう、先輩達と…あの人と同じ場所で戦えないのだから。
少なくとも一年半は。
それがたまらなく長く感じて、同時に寂しさを覚えて切なくなった。
『 甘 ク 薫 ル 夜 』
今日だって本当は一緒に帰る予定だったのだ。
それが急に用事を思い出したからと言って先に帰ってしまった。
もしかしたら嫌われたのかもしれない…なんて事さえ考えてしまう。
今まであった肩の重みがないだけで、あの人が一緒にいないだけで考えることが暗いほうへ暗いほうへ
向いてしまう。
こんなんじゃ余計に嫌われるだけなのに。
空はすでに暗く、細長い三日月が西の空に浮かんでいた。
ときおり月は雲に隠れ、光が消える。
「あの時もこんな夜空だったっけ」
少し寒くなった風に乗せて甘い匂いが、した。
記憶にも新しい、なによりも大切な瞬間を―――呼び起こす。
思い出すたびに胸が締め付けられて苦しくて。
そして好きなんだと実感する。
あの人からの告白がなければ気がつかなかったくらい鈍い恋心だけど。
世界中の誰よりも大切で、そして守りたい人なんだ。
本当は俺よりも強くて光り輝いている人だけど。
でもときおり危なっかしくて。
執着心なんてないんだと思っていたのに。
そこにあの人がいるだけで俺の全てが惹きつけられる。
意思を持たないはずの細胞の一つ一つがあの人を捉えて、放さない。
さすがに告白された時は驚いたけど…。
月明かりを浴びて落ちる雫から眼が放せなかった。
胸が痛かったくせに。
純粋な気持ちが込められた雫を流す姿は本当に綺麗だったんだ。
どんなに光り輝く宝石よりも、あの人の…跡部さんの流す涙のほうが綺麗で。
目が離せなかった。
告白されなければ気がつかなかったくらい鈍い恋心だけど。
「そろそろ時間だよな?」
一緒に帰れない変わりだと、公園で待ち合わせをすることになったんだ。
跡部さんの家から程近い…あの公園で。
甘い、甘い匂い―――
くらくらする匂いに酔わされて―――
指定されたベンチで座ること10分。
ぼーとしてれば後ろから抱きしめられた。
「跡部…さん?」
「あーん。俺以外に誰がいるってんだよ」
「もう用事は終わったんですか?」
「終わった。それよりそのまま目潰れ」
「…ウス?」
「絶対に俺がいいって言うまで目を開けるなよ!」
「ウスっ」
言われるがままに目を閉じれば跡部さんがくすりと笑った。
一体なにをしたいんだろう…。
いつもと違う香りがするけど…。
「膝の上、乗るぞ」
俺の返事を待たずに太ももの上に重みを感じた。
ちょうど俺に右肩を預けるように座られて…どきどきが止まらない。
もともと密着されるのに慣れていないのだ俺は。
小さな頃かがガタイが良かったせいで同学年の子たちよりも力があった。
そのため、怪我をさせないようにと…一定の距離を持つようになってしまったんだ。
逆に跡部さんは二人きりになると密着したがるのだが…。
「樺地…鼓動が凄い早いぜ?まだ慣れねーか?」
「ウス…。すいません跡部さん」
「バーカ。謝んなって。少しずつ慣らしてけばいいんだしな」
「………ウス」
目に見えなくとも跡部さんが微笑んでいるような気がして余計にどきどきしてくる。
そっと俺の両頬が手のひらで包まれた。
いつの間にか向き合うように座られて。
―――コツン
軽い音を立てながら俺のおでこに固いものが当たる。
もしかして跡部さんのおでこだろうか?
「なぁ覚えてるか?」
「………?」
「ここの公園で、このベンチのすぐ側で俺はお前に告白したんだ」
返事をしようと口を開きかけた瞬間、唇を塞がれた。
ちゅっちゅっと軽く啄ばまれるように。
「今も気持ちは変わってないぜ。それ以上にもっともっと俺はお前を好きになった」
そのまま抱きしめられて言葉を失う。
跡部さんからの言葉が嬉しくて嬉しくて。
「ばーか。お前が泣いてどうするんだよ」
ぺろっと………舐められた。
びっくりして目を開ければ跡部さんは楽しそうに笑って。
どうして貴方はいつも俺を驚かせるんですか…。
「お前だって同じ事やっただろう?」
「それはそうですけど…」
「ほら、まだ目を開けるなって。目、閉じてろ」
「ウス…」
ふわりと、甘い匂いがした。
秋の匂いとも言える甘い匂いが。
甘い、甘い匂い―――
いつのまにか捕らわれた―――
「これからもずっと、俺はお前のことが好きだ。…愛してる」
もう一度口付けを交わせばぱらぱらと何かが降ってきた。
強烈なまでの甘い匂いの元が…。
「目、開けていいぞ、樺地」
跡部さんの手からこぼれ落ちてくるのはまだ咲き始めたばかりの金木犀の花。
小さな小さな花たちがぱらぱらと落ちて来る。
「覚えてないのかもしれないけど…今日のこの時間に告白したんだ。
自宅の金木犀がさ咲き始めててさ、あの日のことを思い出して…やってみたくなったんだ。
思った通り驚いたろ?」
「ウス…。でも跡部さん…ちゃんと覚えてます」
跡部さんの体ごと抱き寄せて、下から唇を盗む。
逃げられないようにがっちり腰と肩を抑えて。
これくらい…ならいいよな?
「でも跡部さんが覚えててくれて凄く嬉しいです」
「俺から言い出したんだぞ。覚えてるよ!」
「跡部さん…。これ………」
テニスバックを漁り器用に取り出したのは昨日完成させたばかりのボトルシシップ。
この前家に来たときに気に入ってくれた奴だ。
「くれるのか?」
「ウス。跡部さんにあげる為に作りましたから」
「ありがとな、樺地」
「ウス!」
貴方が喜んでくれることが何よりも嬉しいんです。
だからずっと―――側にいさせて下さい。
「こういう記念日とか馬鹿にしてたけど…いいもんだな」
「そう…ですね、跡部さん」
「よし!樺地、今日はお前お泊りな」
「うっ………ウス?」
「どうせ明日は祝日なんだからいいだろ?」
甘い、甘い匂い―――
あの人から薫る匂いのように―――
くらくらする匂いに酔わされて―――
いつのまにか捕らわれた―――
そして俺の全てが貴方を欲する―――
*** Fin ***